こんにちは、
名古屋の時間貸しレンタルオフィス、レンタル自習室の@Spaceアットスペースの店長&管理人の中井です。
さて、1月17日で阪神・淡路大震災から14年目となりました。
早いものです。
私は、以前勤めている会社勤務(大阪支社)時に震災にあいました。
そのときは、兵庫県伊丹市に住んでいました。
少し忘れてきてます(歳のせいか?)ので、ここに書き留めておきたいと思いいます。
ちょっと長いので興味のない方は読み飛ばし下さい。
【1/17午前5時46分52秒までの経緯】
私は金融機関向け部門システムのSEをしていまして、
このときは、神戸と東京に拠点を持つ某金融機関のシステム開発に携わっておりました。
その関係で、次の生活サイクルをしていました。(大変だったな)
月曜朝に兵庫県伊丹市自宅→東京へ出張。
月曜日から金曜日まで東京支社でシステム開発作業。
金曜日の夜か、土曜日に東京→自宅
1/16月曜でしたが、休日のために1/17火曜日の朝に東京に向け移動する予定でした。
【午前5時46分52秒】マンションの3階で、3LDKに妻と二人で住んでいました。
このときは、押入とベットしかない部屋で二人で寝ておりました。これが
・「どーん」という強烈な音と共に、上に突き上げられるような揺れを感じました(ベットから上に体が上がった感じ)
・寝ていたからなのか、揺れ自体は一瞬だった。いつもの地震だと横揺れが数秒続く感じなのだが、全く違う。
また、日が昇っていないし停電で電気もつけられなかったので部屋の中は薄暗かった。
よく見ると、
横の部屋は置いてあるタンス類が倒し、タンスの角が下の畳にめり込み凹んでいた。(怖い!)
キッチンは、床一面にガラスや陶器の破片で一杯。(裸足だったら、ダイハード1のブルースウイルス状態だ。怖い!)
食器棚は倒れていなかったが、扉があいて中の食器類が外に出た模様。
■ここでの自分の感情状態は、あまりの大きな惨事を見ると、他人事のように一歩引いて客観的に物事を考える癖があった。
(多分これは、現実から目をそらす逃避行動かもしれない)
そのため、その場に必要な物や事を即考えた。
⇒(行動指針):マンションの外から住人の叫び声が聞こえるので、とりあえず外に出る。そして何が起こったのか情報収集
⇒(行動):
メガネや時計、そして携帯ラジオ(出張に持っていくので用意してあった)の置いてあった場所を思い出し付近を捜し発見。
外は寒いので、コートやジャンパー類を探し、私と妻に着せる。
いざ、マンションから外に出ようとすると、玄関の扉が空きません!
自身で玄関の扉部分が湾曲して開かないのです。住人が外へ避難する声がするので、妻が慌てていました!
何度が玄関ドアを蹴っていたら開きました。(でも、今度は閉まりませんでした。)
【午前6時すぎごろの伊丹市の様子】
第一印象は、大変静かでした。不気味なほど静かでした。
大きな火事や事故が起こると、普通は救急車やパトカー、そして消防車のサイレンでうるさいはずなのに・・・・何も聞こえない
朝日で、やっと周りが見えるようになってきました!
ん・・・
JR宝塚線の向こう側にあった工場が無い。奥の工場もない。壊れたと言うより潰れてしまい視界から無くなっているのです。
電気が止まっているので、出張で持ち歩いている携帯ラジオ(Yシャツポケットタイプ)でNHKを聞きました。
・・・・「現在、阪神地方で大きな地震があった模様・・・・・。確認中で情報が入り次第お知らせ致します。」
の繰り返しでした。
この静けさと、情報が無いという報道、そして外気の寒さから、ただ事ではない恐怖と寒さを感じました。
でも、
気を取り直して、同じマンションに住む住民の安否を確認いたしました。全員けがなし、安堵!
⇒実は、私は当時マンション管理組合の理事(くじ引きで負けた)でした。
それから、大阪方面からヘリコプター2機が神戸の三宮方向へ向かって飛んでいくのが見えました。何事もなかったように・・・
えらい事になったと感じましたが、私も妻も怪我がなくて本当によかったと思っていました。
【当時は停電でTVが見れませんでしたが、その時の報道TV】■第一報
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【1/17その日のその後】
幸いに伊丹市の周りでは火災が発生しておりませんでしたので、自分の部屋に戻りました。
玄関ドアは、無理やり開けたので閉まりませんでした(寒いのに)
部屋の中の散乱具合があまりにも酷いため、私も妻もどこから片付けていいのやら判らず、暫くボーっとしていました。
重く大きなタンスが全て倒れているのを見た時には、寒気がしました。
本当にタンスの置いてある部屋で寝ていなくてよかった!
TVは幸い壊れていませんでした。が、
停電で情報が取れませんでした。今どうなっているのか見えない不安は大きいです。
水道は断水となっていました。
このマンションはオール電化でガスがありませんでした。これは幸いでした。
数時間後に、電気が通じました。TVを見ました、NHKです(ここぞという時は、やっぱNHKを見ます)。
内容は、情報が混乱錯綜しているようで断片的な内容でした。
しかし、ただ事ではない印象でした。
直ぐに、また停電となりました。
通電と停電は、繰り返し発生したのを記憶しております。
この時は、これが火災を引き落とす原因だったとは思いも寄りませんでした。
今日は平日であったと思い、会社に連絡を入れようと考えました。
もちろん、自宅の電話は不通状態だし、この時は携帯も電話も持っておりませんでしたので近所の公衆電話に向かいました。
やっぱり、みんな同じことを考えていたようです。
公衆電話は、待つ人で列ができていました。
おゃ! あたりがガス臭いのでありました!
ここら辺は住宅地で、どこかでガス漏れしているのか?ガス管が破裂しているようでした。
でも、大阪ガスさんは来ていませんでした。
なぜって、そこいらの道路は亀裂があり、車が走れない状態でしたから、
僅かに、50CCの単車が走っているぐらいでした。
暫くして会社に電話連絡ができました。(公衆電話は通じました)
私が所属していた大阪支社は、1/3程度しか出社していない状況でしたが、各社員の安否確認をしているようでした。【
【それから・・・・】
マンションのご近所さんが、近くのスーパーで水を買ってきてくれました。(ありがたい)
断水しているので飲み水に困りましたから。
それから一週間は、マンションで缶詰生活をしました。
・断水だったので、
①水洗トイレが使えず、これ困りました。近くの使える水道マンションの一階駐車場の水道だけが使えたので、ここからバケツで運んで使いました。水道の水とは言え、水は濁っていました。地震の影響だと思います。飲料水には使えませんでした。
②スーパーが時間限定。そのため、並んで必要な水と食料を買いました。
③マンションのエレベーターは故障中。停電がな取っても強い揺れのせいで故障ランプが点灯して使えませんでした。
上位階の人は大変苦労をされていました。
エレベータ会社の保守員が来たのは、数日たってからだったです。
④停電は断続しますが、電気は暫くして通じました。しかし、電気温水器(オール電化)が倒れていて、電気屋さんを呼ばないと直せない状況でした。お湯が使えず、お風呂は当分無し!冬でよかった・・・・
【最後に全くの主観】
ここからは、あくまでも私の主観です。
①大震災が起こったら、その時点で何処にいるかで生死を分ける。家の中は家具類が凶器となる。思ってもみなかった事です。
②余りにもにも大きな災害が発生すると、警察や消防など公共サービスは機能しない。誰も助けてくれません。
③倒れたがれき類を退けるのは、人海戦術では無理!。やっぱ重機がないと時間がかかりすぎる。
④大規模災害の一番の助けは自衛隊しかない。道なき道を進み、がれきを取り除けるような特殊車両を持っているのはここしかない。
⇒伊丹市内に自衛隊の駐屯地があることはよく知っていました。特殊車両もよく道路で見ました。
しかし、しかし、しかしですよ!。震災発生直後に、この近くの自衛隊さんが動けなかったんですよ。
当時は所轄官庁の命令が無い限りは動けない。何たることかと落胆
☆これを教訓に 今じゃ、相当改善されています。
⑤あの時、ダイエーのトップだった中内さんは行動が早かった凄いですね。ダイエーやローソンは開いている店があり助かりました。
今は、
中部地方に住んでいますが、
もう、
大きな地震は御免ですね。
怖いです。
それでも発生した時は、皆で助け合って頑張りましょう!
長々と書いてすいませんでした。
全て、自分の経験の備忘録として書きました。